戸板康二『歌舞伎の話』

歌舞伎の話 (講談社学術文庫)

歌舞伎の話 (講談社学術文庫)

昭和25年に出版された本が復刻されました.これを契機に戸板さんの本がどんどん復刻されるといいなあ.
物凄く簡潔に平板な言葉で書かれた歌舞伎紹介です.特に「歌舞伎を見るとは」という根本的なことを観客に向かって説明している本でした.

昭和25年というと幕末から明治にかけてと同じくらい戦前戦後で日本人の価値観の逆転がおこった時期なんだろうか.ちょうど新劇が文字通り新しい演劇として人気を博し、歌舞伎が旧時代的な演劇としては取るに足らないものとして軽んじられる風潮があったらしい.そういう時代を経て今は歌舞伎がある程度もてはやされている時代なんだろう.歌舞伎座に行くと多分行かない人が想像するよりずっと若い観客も多い.でも自分を始めそういう人の多くは「ルーツとしての歌舞伎」ではなく、「未知な世界」「珍しいもの」として歌舞伎を見てることも否定できないと思う.でもそうだからこそ、ここで戸板さんが苦言を呈しているような歌舞伎を旧時代的で語るにも値しないかのように蔑む感覚は全くない.今は時代が一巡りしてこの本が書かれた当時の新劇と歌舞伎の立場が逆転してるんじゃないか.


歴史、役柄、脚本、演技、芸術性と順に語られていてどの項もあまりマニアックな方向に偏らず誰もが楽しめ内容です.
そして改めて歌舞伎は役者と型だということを再認識しました.歌舞伎は芸術ではなく「芸」「芸能」である.歌舞伎を見るときにこういう歌舞伎の特徴を知っていたほうがより楽しめるというのも確かです.

・役者はまず目で見たときの第一印象.俳優の第一条件は形のよいということ.
・「役柄を知る」とは、心理を解剖したり、生活を分析したりすることではなく、伝統的に役柄を表すために行われてきた手法を、従順に守る以外なかった<中略>要するに、伝統演劇の場合はモーション(動作)を学んでいるだけど、エモーション(感動)が内奥から起こって来るのです.
・様式美を根幹に置いたスペクタクル中心の演劇であり、俳優の顔を見せるのが主目的=俳優本位、スター本位
・“芸の真髄というものは実と虚との皮膜の間にあるものだ”by 近松門左衛門

歌舞伎はいつものとおりの筋書きを期待したとおりに役者が演じることによって、客席に安心感を与えることで歓迎された.ある限られた枠の中から飛び出さない程度のスリルとサスペンスと交え、平凡な形式を踏襲するという一種の退屈さにも似た年中行事であった.

・「美」の観点からいわずには、歌舞伎の芸術性は何もいうことがありません.
羽左衛門(十五代目)の実盛は、歌舞伎美の権化だったのです。彼の演技は、いつも役の精神に内部から入って割り出したものではなく、役の外形を作り上げ、それだけで、無条件に、観客が受け入れたのでした。こういう信仰に近い、俳優と観客のむすびつきこそ、歌舞伎の伝統です。
菊五郎(六代目)だと、与三郎がいるなとい思うだけです。近代劇と違って、歌舞伎は“羽左衛門の与三郎”がいるということに、意味がある場合があるのです。

凄く良くわかる.少なくとも私は確実に“与三郎”ではなく“○○の与三郎”を見にいってる客だからです.
戸板さんはこの本の中で、岡鬼太郎氏の“歌舞伎の役は、襖をあけて出た瞬間に「勝負あった」だ”という言葉を引用して、いくら技巧をつくしても仁があっていなければ完璧な出来とはいえないと持論を述べてます.


私はもともと見た目に左右されがちな客ですが、特に歌舞伎においては「そう見える」ということにとても影響される.見得があったり引っ込みがあったりとやたらめったら決めポーズが多い芝居なだけに、型がきちっと綺麗に見えるということはそれだけで元取った!って思うくらい価値がある.派手好きの客の1人としては、地味だけど堅実な演技の出来る座組より、演技に難はあれどパーッと華のあるスター役者が揃った座組のほうに惹かれます.細かいことはわからないし、そもそも劇場には楽しみに行っているので、綺麗でかっこいい役者がたくさん見られたほうがいいのです.
そんな私のご贔屓役者は仁左さん、玉さん、菊五郎さん、菊ちゃん、海老蔵、このあたりまで別格.我ながら呆れるほどにわかりやすい.
あと女形鴈治郎さんかな.びっくりするほど可愛らしい.最近ちょっとセリフがきついのが難点.
愛之助がもう少し歌舞伎座で見られると嬉しいんだけどなあ.なかなか出ないのが残念.