坂口安吾『白痴』他7編

白痴 (新潮文庫)

白痴 (新潮文庫)

随分昔に『白痴』まで読んで止まっていた文庫をようやく読みきった.
坂口安吾はこれと『堕落論』しか読んだことがない.おかげで文体に全然馴染みがなく、最初はすごくとまどった.変わった文章書くね.
でも読み続けるに従って新鮮な感情が伴ってきた.わかるわーっていう共感でもなく、こんなのやだっていう反感でもなく、今までの私の周りにはあまりない思考に満ちていてとても不思議な感覚だった.
前半の作品は男の視点で書かれており、いかにも無頼派とはこういうものかと眺める程度だったのが、後半女性の視点の作品になってから俄然面白くなった.肉体と愛情の割り切った捉え方がむしろ爽快だった.「私はこういう人間です」と、悪びれることなく冷静に客観的に自分を捕らえてる.この女性達ってカッコたる自分を持っていて、かといってそれは自信や自負からではなく「私はこうしかいられないから」「これしかできないから」っていう言ってみればすごいわがままですごい達観した状態にいるのね.だから絶対自分を変えたりしないのに、主張したり反論したりもしない.その心持ちになりたいとすら思ってしまった.


ちなみに前に途中まで読んだときの感想は以下のように書いている.昔のほうが真面目に書いてたみたい.
6年たって(読みきるのに6年かかったか…)、6年前とは明らかに違う感じ方をした.こういう「貪欲さ」に正面きって向かえるようになったってことかしら.

坂口安吾『いずこへ』(1999.4.27)
坂口安吾の人となりについてわたしはほとんど何も知らない.例えば漱石だったらイギリスに留学していたとか鴎外だったら本業は医者だったとか、その程度の知識くらいはある.が、この人に関しては「堕落論を書いた」くらいにしか知らない.だからこの小説を読んで一体全体ここにでてくる「わたし」にはどの程度小説家本人が投影されているのかがわからなかった.特にここでの「わたし」が「芸術家とは」といった命題を抱えているがだけに余計に気になった.読み終えてから解説にちらっと目を通したら「私小説作家」という言葉があった.ということはこの小説の主人公である「わたし」が多少なりとも小説家本人と思っていいのだろうか.「堕落論」はとてもおもしろく読んだ.この作家の勢いというものが感じられてこういうエネルギッシュなものもいいなぁと珍しく思った.そこには思想だけで生活がなかったからかもしれない.『いずこへ』で感じるエネルギッシュなものというのはまったくもって「貪欲に生きて行くこと」だけ.しかもそれはここで描かれている無知でエゴイストな女性達からのみ感じる.そう、そこが嫌だった.あくまで書いている男性「わたし」はそういう女性達に囲まれ絡め取られ流されながらもどこか別次元に存在し高みから見下ろしているような気がする.これを男性が読んだらどう感じるかわからないが、少なくともわたしには男は常に理性的で女は思考せずただ欲望にまかせて生きているものとして描かれているように思えてならない.もしかするとそれがこの主人公の悲劇なのか.思考するだけで実行できない男と、思考することもなくただひたすら自分の欲望のために実行する女達.この小説には人生の裏街道とでもいうような場末の雰囲気が漂い、そういった底辺でもがきながら生きている男女の日常が描かれている.わたしはやはり美しいものが好きだ.頽廃していても美しいものが見たい.これを読んでそれを再確認した.漱石の世界は頽廃して壊れても美しい.この世界にはそういう美しさは感じられなかった.


坂口安吾『白痴』(1999.11.14)
はい、お昼のお供です.ハンバーガーぱくつきながら読みきってしまった.短いしね.で坂口安吾.この人ってよくわかりません.解説を読むと「究極のロマンチスト」だそうです.そうなのか、だからわかんないのか.『堕落論』はおもしろいと思ったけど小説はなんていうのかなぁ、ピンとこないんだなぁ.これも隣家の白痴の奥さんが迷い込んでくるあたりはおもしろかった.でもね、最後の空襲のあたりからまたよくわからなくなってしまった.それに最近の手塚眞の映画の映像がちらついちゃって.奥さんの顔は甲田益也子になっちゃうし.浅野忠信甲田益也子じゃなんていうか退廃的過ぎっていうかどっちかっていうと乱歩的な雰囲気になりすぎませんか.映画見てないけど.小説読む限りあんなにキレイじゃないんだよなぁ.もっと下世話で『どん底』みたいなの.伊沢って絶対病んでるけど、病み方がワタクシ的には、できるだけ離れていたい、見ないことにしようって目を瞑って近寄らないタイプ.